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「自分と同じように考える人間」は実はほとんどいない

  • 2007-11-16 (金) 11:16
  • essay

一発目のエントリからしてこの話題はどうなのか。と思いつつ書きますが。

  • 親しい友人に迷惑をかける
  • 親しい友人に失礼なことをする

といった行為について人間がどのように認識するのか、というのを口頭及び軽くWebで調査してみたところ、だいたい以下のような回答が得られました。

  1. 迷惑をかけたくないので何かしら我慢をする
  2. 親しい相手にも礼節を持って接することが良好な関係を保つ秘訣である
  3. どういう行為が迷惑・失礼であるかは親しさの度合いで決まる
  4. 人間なんだから迷惑をかけることもあり、それを許しあうことこそ友情である
  5. 相手が自分の迷惑を考えて我慢しているとするとそれが申し訳ない、苦痛である

これ以外の回答ももちろんあるでしょうが、これでほぼ網羅できていると考えることにします。どうにも粒度が荒いので、ちょっとこう、気持ち悪い感が残るかとは思いますが、このまま話を続けるとして。

まず、これらすべての意見に、反論を試みることができます。

迷惑をかけたくないので何かしら我慢をする
我慢をすることがストレスになって関係が破綻するなら我慢する必要はない
親しい相手にも礼節を持って接することが良好な関係を保つ秘訣である
羽目のひとつも外せない関係が果たして良好といえるだろうか
どういう行為が迷惑・失礼であるかは親しさの度合いで決まる
親しさの度合いは一方的にしか計ることができず、明確な尺度がない
人間なんだから迷惑をかけることもあり、それを許しあうことこそ友情である
迷惑をかけられたら多少なりとも腹が立つ、許せないこともある
相手が自分の迷惑を考えて我慢しているとするとそれが申し訳ない、苦痛である
人間同士がつきあっていくうえで、一切我慢をしない関係などない

まるで小学校の学級会のような問答になってきました。

さて、ここから何が言えるかというと、「迷惑」「失礼」の尺度は実に様々であり、それに対する「我慢」の認識も人の数だけ種類がある、ということではないでしょうか。当たり前のことともいえますが。しかしね、これは学校では(学級会や休み時間の過ごし方を除けば)教えてもらえない類のことで、それぞれの人間が、それぞれに生きてく中で培ってくものだと思うんです。つまり、認識が合う、なんてことのほうが少ない。そのうえ、認識を合わせるアクションはそれこそ関係が破綻するか否かの入り口でしか起こせない。ひどいときは、破綻した後で思い至ることになる。もっとひどいときは、なぜ破綻したかすら分からないままになる。

ただ、世の中には「迷惑」「失礼」の尺度は基本的には存在すると思います。冠婚葬祭オフィス男女のマナー本もたくさんある。人を殺しちゃいけませんとか、差別してはいけませんとか、ヲタクを指さして笑っちゃいけませんとか、お年寄りを敬いましょうとか、サラリーマンを闇討ちしてはいけませんとか、道徳的な種類のものならあらゆる場所で確認することができます。

いわゆる「よく気がつく人」もいれば、がさつな人もいて、この基準が大雑把になればなるほど総括的に言えば嫌われます。ここで「いや俺は嫌われたって構わん」などと言い出すともう最悪で、まわりの人間は一様に頭をかかえることになるでしょう。

では、この細かいマナーはどこからやってくるのか。答えは簡単で、「自分がされて嫌なことは人にしてはいけない」という教えにずばり代表されるものと思います。「類は友を呼ぶ」と遠いようでいて近い定説です。かの冨樫義博も「HUNTER×HUNTER」の中でこのように言っている。その人を知るには、その人が何をしたら嫌がるかを知りなさいミトさんが母親だったらなぁと思わずにはいられない名言です。

私は書きながら考えるタイプなので実はそろそろどういうオチをつけたらいいのか悩み始めたところですが、せっかく書いたのでこのまま続けます。

何が言いたいのかというと、ミトさんの言葉を裏返すと、こういうことじゃないかと。

――その人の嫌がることは、その人を知ろうとしなければ分からない

つまり、「自分がされて嫌なこと」を知っているだけでは不十分じゃないか、ということです。誰かのことをよく知り、誰かとの友情を育んでいく、より良好な関係を持続させるためには、「自分がされて嫌なことはしない」のはもちろんのこと、「その人が何をすると嫌がるのか」を注意深く見極めなければならない。のでは、ないか。基準が自分にあるだけでは、よろしくない、こともある。

そしてもうひとつ、示唆されていることがあると思う。ミトさん万歳。それは、「知ろうとしなければ分からない」ということです。すべての前提として、これがある。興味があって、曲がりなりにも好ましく思っている相手を、自分だけを基準にして分かったつもりになってはいけない。痛いしっぺ返しを喰うことが多々あります。というか、私はこれの名手といってもいいダメ人間であり、いまだ親しい友人すら傷つけることがあって難儀します。私自身が、おおよそタブーの少ない人間でして、「理不尽なことが嫌い」という以外はあまりないんですね、基準が。根がマゾなので殴られても嬉しいときあるし、自虐的なので徹夜で本を読み続けるのなんて快感、幸福な舌の持ち主であるためジャンクフードを食わされてもむしろ快感、雨に濡れるのも嫌いじゃない、だからこそ、相手を傷つけてしまうことがある。

自分の基準が特殊である、と認識していれば、多少好奇心のある人間であれば他人はどうかしらと何かしら探りを入れるものでしょうが、そういう認識からして欠如している場合、非常に話はややこしくなります。たとえば、上記の問答などがまさにそれ。「失礼なことを許し合える関係が友情」とは、たとえば私は思ったことがなかった。それゆえに、実際こう言われたときには正直その人に対して多少イラっとしました。けれども、そういう認識でそういう行為に及んだ相手には、悪気が全然ないわけですから、なぜ私がムカついているのかが分からない。絵に描いたようにすれ違うわけですね。でも、どっちも悪くないんです。

だから、「なんて失礼な奴だ!」「あいつは頭がおかしいんじゃないのか」「だからヲタクは嫌なんだ」と結論づける前に、相手のことは知ろうとしなければ分からない、ということを、思い出さなきゃいかんなぁと思ったわけです。その相手が、関係を持続させたい相手あるいは望まざる関係であっても持続させざるを得ない相手(上司とかね)、という場合に限りますけど。どうでもいい人なら、頭のおかしい人と思っておけばいい。私なんかは、好奇心からどうでもいい人でも時に深入りして妙なことに巻き込まれたりして反省の繰り返しだったりもするが、そうやってサンプルを集めることもけっこう有効かもしれない。

人はみな、自分と同じ考え方をするとは限らない。まあでも。だから知りたい、だから好き。

私はこういうことを、とくに同人関係から学んだような気がします。何事も、真剣にやればそれだけの見返りがあるさ、と自分を慰め、今日も元気にホモ妄想をするわけだ。

まとめ

……ミトさん再登場しないかなぁ。

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