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2009-07
人間の体は精密な機械です
- 2009-07-29 (水)
- essay
今年も夏前半の闘いが終わりました。たぶん。というわけで、去年に引き続き、作業をふり返りながら鬱陶しい自分用メモを残しておきたいと思います。ちなみに、去年の冬が抜けてるのは、冬は落選してたからです。
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数週間の孤独
- 2009-07-17 (金)
- as always
外はどんどん暑くなるのに会社の冷房が寒冷前線、罰ゲームのような毎日をみなさんいかがお過ごしでしょうか。私はそろそろメメタァってなる。
それはそうと、原稿です。とても面倒くさいことに仕事がいろいろ忙しく、加えて、突然ピヨピヨ(教え子)から人生・宇宙・すべての答えなどについての相談を持ちかけられたり、あるいは、引越し間際の友人からインターネット貸してくださいと言われたりで、愛されたいでも愛そうとしないその繰り返しの中を彷徨って、僕が見つけた答えはひとつ、怖くたって傷ついたって大好きな同人誌を作り続けるということです。さようなら。教え子はまだ若いのに生きるべきか死ぬべきか的なことを言っていました。心配です。生きるべきかとか言っても200年後にはどのみちみんな死んでいますよ。せめてハムレットなどと呼んであげたい。
それで昨日は発狂しそうになったので漫画を買い求めました。阿仁谷ユイジの新刊が出るみたいな噂を聞き、本屋を何軒かまわったのですが見当たらず肩すかしだわーと思ってbasso.「Gad Sfortunato」、英田サキ原作山田ユギ画「たかが恋だろ」、あと表紙の男の子が好みっぽかったのでややサブカルで河内遥「へび苺の缶詰」など買い、サイゼリアでプリンなど食らいながら読みました。自分で言うけど私はBLを外で読める豪傑です。なんか全然狙ってなかったんですけど、サキ&ユギのと河内遥の両方に同じ年ごろの幼い子ども(しかもなんか外見も似てる)がサブキャラとして出てきていて、なんだこの偶然とか思いました。全然ジャンル違う話なのに。そんで河内遥のほうは、一般向け(太田出版だし)なのですが、ゲイの切ない恋の話も入っていて、すごく好みだった。むしろBL2冊より断然気に入ってしまいました。こういう出会いがあるから本屋では油断できません。サキ&ユギ両先生はそれぞれ単品のほうが読みやすい気がしますね。ともかく英田サキはヤクザが好き過ぎだ。
しかしこのところ漫画をたくさん読む中で、とくにコマ割りとか台詞の入れ方とかをじっくり見る時間もとるようにしてるのですが、絵やストーリーだけでなくコマ割り(というかコマごとの構図)にも特徴って出るんだなーというようなことに気がつきました。そしてBLって基本顔まんがなんだなーとしみじみ思った。もちろんそうじゃない作家さんもたくさんいますけど、基本的に見せたいのは顔なんだ、という。エロシーンも顔なんですよねなんか。正確に表現するなら「キャラ」だと思うんだけど顔が重要であることには変わりないっつーか。ついでに男性向けを観察するに、体まんがだなーと思う。エロシーンも体内まで描く人いるじゃないですか、あれなんかモロに「体」がメインで、顔とか多分ただのアイコン。すると、女性はわりとエロまんがを読むのであっても男性をキャラクターとして見るし、顔超大事、一方で男性は体重視なんでしょうね。とても分かりやすい。分かりやすすぎて脱線しましたが、要はBL的なものを描きたいときは顔とキャラを目立たせる描き方にすれば無難で、そうでなくストーリーまんがなんだと強調したいなら顔を描かなければいいんじゃないかとか、そういうことを考えている。(もはや常識だったらごめん……)
あと、めっちゃ描き込んでも読みにくくならないコマ割りとか、スカスカでも手ごたえを感じるコマ割りとか、好みにもよるだろうけど何か法則性はないかとかめっちゃ探しています。やっと掴んだ感覚としては、あれですね、コマの中に一定の大きさのものが続くと、ウザい感じですね。人だけでなく小道具とか背景でも、だいたい同じくらいの大きさのコマの中に同じくらいの大きさの物体を並べ続けると変な圧迫感が出てウザい。(圧迫感の演出にはむしろいいのかもしれませんが)最終的に、コマの大きさだけではなく、コマの中にあるものの大きさも含めてリズム、と学習しました。人だけじゃなく小道具や背景にも描くときの手首のグリップっつーか癖が出る角度みたいのがあるんですね。私は人間の器も小さいので気をつけないとすげー小さいものばっか画面に並んで病気みたいになりました!!
さらにまったく関係ない話を突然始めると、磯崎憲一郎が芥川賞受賞インタビューで答えてたことが印象的でした。「小説は時間を描く」「小説がどういう方向へいくのか、設計図なしで書いている」「何でも最初の一行だけなんです」作品からもそういう印象は受けますけど、言語化されてると少し感じ方が変わりますね、本当にそうだったのかーという感じ。設計図なしの小説ってアリなんだよな。というか私はわりとそういう小説って好きで、マルケスとかシコシコ読んでると充足感を覚えますし、保坂和志はそんなに好きじゃなかったんだけど(彼はある意味かわいらしすぎる)、あと町田康は読むのめんどくさくなっちゃったんだけど、そっか、私は設計図のない漂流感を楽しいと思ってたのか。
ラノベブームからこっち、小説の手法って全体的にキャラクター&シナリオ寄りになった気がしてたんですよ。漫画原作的というか、大塚英志的というか。むしろハリウッド化? 魅力的なキャラクターの作り方、描写の仕方、あるいは起承転結などのシナリオライティング、これらの、なんていうか、「あなたも小説家になれる!」みたいなさ、すべての小説は画一的な手法によって“再現”可能、と言われたような、妙な窮屈さをずっと感じていたのですが、それが磯崎さんのインタビューによって覆されたような気がしてスッキリです。大衆娯楽系の作家からしたらもう型破りもいいとこなんじゃん? 「最初の一行しか決めてません」みたいなの。でも芥川賞とったってことは、ちゃんと実績として残る。いやークール。
ただこの手法自体に関してだけでなく、もういっこ思ったのは、こうやって自分の型を知っている人は強いなーってことです。「自分から型にハマる」みたいなことをわりとネガティブに言う人もいますが、私は何かしらの「型」を持ってる人が好きなんですよね、ブレがなくて、その頑固な感じというか、それこそ強いと思うし。小説の型なんてのは信念に近いって気さえするんです。経験からしか生まれない、自分だけのスタイルじゃないですか、どういう影響をどういうバランスで受けてミックスされたかとか、本当にその人そのものみたいなんが出ると思うのです。全然うまく言語化できないけど……。
そういうわけで単に同人誌などをしかも超小部数で作っているだけの私が、なんか大それたようなことを考えている時点で痛いんですけど、しかし磯崎さんの受賞インタビューにはマジでいろいろ感じるところがあったということです。まあとにかく原稿やってからまた考えたいと思います。
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漫画のネームという工程を考える
夏の〆切に向けて漫画を描いていると突然だらけた文章に逃避したくなって結果的に原稿中は日記が増えるmatonoですこんばんは。
ところでみなさん、ネームはきちんと派ですか。文章だけとか、コマ割だけとか、やり方はいろいろあると思いますが、とりあえず最後まで絵コンテ的に流れを決めてから描きます? 私はもーこれが苦手で、というか時間的にいつも焦りが先にたってしまい、ネームと下描きを一緒にやるという、つまり一発描きで描き進めていってしまうという悪癖があります。そして結局1枚1枚悩むので、逆に時間がかかる、追い詰められるしクオリティも落ちるしで、まったくいいことがありません。
そこで今日はネームという作業工程について考え、ネームが絶対有益であると自らに認識させたいと思います。
というか、そもそもなんで漫画にネームとかの作業が必要なのか、とか考えたことあります? 私はある!! どうでもいいところだけ力強い!! これ追究してるとけっこう面白くて、なんていうか「漫画のテクニック」とだけ考えてると行き詰るんだけど、「作業効率化」とかの方法論だと思うと何かがひらめいたりします。たとえばネームというのは仕様書である、的な。漫画の作業工程って、数が多いじゃないですか。そんで、だいたいスケジュールが決まってる上に、基本的に後戻りできないじゃないですか。(できなくはないけど、おそらく落とすことになる)そうすると、なんだかこう、システマティックに管理できそうな気がしてくるわけです。つーか、漫画ってあらゆる創作行為の中で、「作業」の占める割合がわりと大きいよね。だからアシスタントを雇って分業できるんだろうし。
などと考えていると、シミュレーション上では少なくとも、ネームを作ったほうが効率は上がると思われたわけです。「ネームができない限り次の工程にいけない」という縛りをクリアするには、ネームを描き上げる、というゴール(マイルストーン)1個だけあれば十分なんだけど、「ネームと下書きを気の赴くままにやっていく」というフワっとした感じになると、ゴールが明確じゃないので、ある意味、ページ数と同じ数だけ何かをクリアし続けないといけないし、その都度作業が止まることになる。同じ作業は連続すると効率が上がるので、工場等でも「ラインで」製造されるイメージなんだけど、ネームと下書きをいっしょにやったりすると、そもそもライン自体ない、みたいな。
なんかもう、明らかにネームだけ先に仕上げたほうが効率いいやんけ、という感じに落ち着き、まずはってことで今回の夏コミ原稿は思い切ってネームを描きまくりました。60枚描くのに実働時間で言うとだいたい15時間くらいでした。コマ割りに悩む時間を入れても、1時間あればまあ4枚くらいは進む計算です。もちろん素人ですから、自分が見直していいじゃんと思えばもう作画に入っていいわけです。すると、作画工程では次に何をやるか悩まなくていいので、「筆が完全に止まって逃避する時間」を、可能な限り減らすことができるはずです。
一応比較として、ネームと下書きをうだうだやった場合ですけど、いくら脳内に構成があるといっても、次のネームを思いつくまでの時間とか、精神的なイラつきとかが加算されるので、あんまりこう、時間の予測ができない。ので、全体作業量の計算といったら、ものすごくバラつきのある量を平均して出さないといけなくなり、予測の精度がブレてしまいます。ネーム工程をきちんとこなせば作業時間の予測がつくのに、焦ってこの工程を飛ばすと〆切まで延々と不安が続くわけです。
公式も作ってみました。
ネームにかかる時間 = A分/枚 × 枚数、作画にかかる時間 = B分/枚 × 枚数、、、つまり、 各工程にかかる1枚あたりの作業時間平均をβ、工程を添え字xで現すとすると、作業時間の合計=(β1 + β2 + … + βx)×枚数
すごく簡単に計算できますし、慣れてくると平均値のブレも少なくなる。よって、スケジュールの見積もりもあまり大きくはずさない。最終的に、焦る頻度を最小限に抑えることができる。(理論上は)
わあ、ネームって素晴らしいですね! というところまで考えたんですけど、これこそが馬鹿の考え休むに似たりというやつで、なんでかというと、よく考えたら「そもそも作業効率を上げる目的で考案されたのがネーム」だからですね。なんか、私はずっと勘違いしていて、ネームが必要な理由を、「編集担当さんと意識合わせするため」だと思ってたのです。まあプロの場合はその理由が大きいと思いますけど、分業や作業効率化のために必要だからある、ってのがそもそもの理由だったんだな……。
つまり、ぐだぐだ描いたけど、ネームをきちんとやったほうが、理論的にも感情的にもすごく楽で、そしてそれはプロアマ関係なく当たり前のことであった、という、大変シンプルな結末にたどり着き、認識を改めることができました。私、アホやな。というか、ここまで十年近くモヤっとやってた論理性のなさ、反面教師として立派過ぎるやろ。
まあなんだかんだいって、同人誌なんぞというものは、個人が楽しんで描いて、楽しいと思ってもらえる層に頒布できたらそれでいいので、そんなムキになってキーって感じで描いたって面白くない。ゆるゆると好きなものを好きなように表現するのが多分一番で、私の場合はそれがストレス発散にもなるわけです。ただし、昼間は会社勤めなどしていて自由になる時間が限られているような場合は、一定の作業効率化を図らなければ、自分がつらい。せっかくストレス発散しているはずが、〆切怖い病になってしまう。ですから、こういう思考実験はまあまあこの先を考えれば有効であった、というのがまとめです。
なお、自分の場合作画時間の平均は、青鉛筆での下描きから鉛筆ペン入れまで1枚あたり40分くらいですね。40分×60枚は単純に考えて40時間かかる。これ、今から全力で1日4時間ずつやるとしても、10日かかる計算になり、仕上げもまあ1枚40分はかかりますし、仕上げだけ諸事情で8枚増えるので、結果的に全作業が終了するまで20日以上余裕でかかるということです。割引は諦めろということですか……。しかしネームなしで中途半端なストーリーを40枚描くよりは多分早くてクオリティもマシになるはずなんだ。(理論的には)
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