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「残酷な神が支配する」~萩尾望都へのラブレター~

  • 2007-11-21 (水) 17:25

はじめに

まず言っておくことがある。わたしは萩尾望都が死ぬほど好きである。信者というほどでもないが(「恐るべき子どもたち」あたりはそう好きでもないし、「百億の昼と千億の夜」も前半は若干退屈であると思っている)それでも相当好きな部類には入ると思う。

なので、冷静で客観的な批判はできない。ゆえにこれは書評ではなく、ほとんどラブレターである。ということを前提に読んでいただきたい。読んで下さるみなさんが途中でこれを失念されることのないよう、以降では敬愛の念をこめて萩尾望都を「モト様」と呼ぶことにする。

本論

目次

  1. 母殺し、というまんが的快楽
  2. 救済者ではないカウンセラーたち
  3. やおいにおける強姦ものとモト作品の違い
  4. やおいにおけるトラウマ以下同文
  5. 愛と死、エロスとタナトス
  6. 「残酷な神」と「支配」について
  7. 愛されるより愛したい?

一.母殺し、というまんが的快楽

わたしがモト様を好きなのは、ひとつにはモト様の個人体験の一部に、ひどく共感できるからである。モト作品の中で何度も繰り返されるテーマとして、母の過剰な愛、そこから抜け出せずにもがく子ども、という構図が出てくるが、これらがモト様の体験、実感から生まれたものであろうことは想像にかたくない。わたしはそこにあまりにも共感する。

じぶんの子ども時代が明らかに過度な親の愛情によって抑圧されたものであったからだ。

こう改めて文字にして書き起こすとまったくもって陳腐極まりない、が、あくまでも「わたしが感じていた抑圧の苦しみ」というのはわたしにとっての真実なので、そうでない人から見るとくどいと思われるだろう描写も、わたしにとっては心地よいのである。特にこの作品でジェルミの母サンドラがまるで悪人のように糾弾されるのはとてもよい。ナディアとマージョリーの母クレアが滑稽なメイクとともに出落ちするのもすがすがしい。サンドラにしてもクレアにしても、幼少期に母親不在だったり親族からいじめられたりと、「悪役としての母」になりうる原因のようなものが描かれてはいるが、だからといって憎めない人物にまで昇華されていないところが完璧である。ナディアが「おかあさんを愛せそうな気がするの」と言ったにも関わらずやはり母のヒステリーにつき合わされている場面など、モト様の描写する母親像はまさに理想的である。

無論、悪役として。

思えばわたしは憎むべき相手がほしかった。母である、という理由だけで憎みたくないと思ってしまうじぶんが情けないと思っていた。ジェルミがサンドラをも殺してしまったとき、サンドラへの愛ゆえに彼は苦しむが、少なくともそれを読んでいるわたしは違う感覚を抱いた。わたしは歓喜した。この「殺す」という行為がわたしの子どものころの葛藤を見事に昇華させてくれたといっても過言ではない。そうだ、火をつけてしまえばよかったのだ。庇護者を自らの手で殺す、というのは一種甘美な誘惑である、とさえ思う。

といって、ほんとうに手を下すことができるのかと問われれば否と即答するだろう。これらはあくまでもイメージとしての殺人、イメージとしての飛翔であり、リアリティを伴うものでは一切ない。ここが重要なのである。まんがだからこそできる、という手法を駆使しないあるいは駆使できない作家が増えている今、モト様のまんがは真実まんが的であり、それゆえにその他大勢の作家とは一線を画す作品が生まれるのだと思う。

あとは余談になるが、かつてわたしと似たような子どもだった大人が、今、世間一般にあふれているのでないかと思うことがある。なぜか。高度経済成長期にいわゆる苦しい、貧しい子ども時代を過ごしたひとびとが、バブル崩壊後とはいっても中流階級を維持することがおおむね可能な現代において、親になってしまうからだ。幼い時分に苦しく貧しかった彼らは「過保護な」親になりやすいのではないかと私は考える。じぶんの体験を抜きにして親になれる人間はまずいない。とくにネグレクトと呼ばれる、子どもを無視する虐待を行う親をのぞいて、普遍的な親たちならば必ず、「子どもにじぶんと同じような苦しい思いはさせたくない」と考えるはずである。であれば、高度経済成長期の親たちが苦しかったこととは何か。学費もままならない、贅沢できない、兄弟が多すぎてかまってもらえなかい、ということではないか。とするなら、金銭的にそこそこ恵まれた家庭、そして少子化もあいまって、彼らはほとんど一人きりの子どもたちに対して、あらん限りの愛情を奉げることになる。金銭的にも、精神的にも。

親とは有難いものである。無償の愛ほどうつくしいものはない。そんなことは百も承知で言わせていただこう。親はなくとも子は育つ、のである。親たちよ、悲しむなかれ。子どもたちよ、今こそ旅立て。母サンドラのためにおとなしく虐待されるジェルミにそう言ってやりたかった。

二.救済者ではないカウンセラーたち

この作品中でのカウンセラーは、癒しと救いのアンチテーゼである。

モト様がカウンセラーを描いている、というのが実は衝撃的だった。わたしは全作品を網羅しているわけではないため、ほかにカウンセラーが登場する作品を知らない(あるいは忘れている)が、それにしてもこの作品に出てくるカウンセラーは秀逸である。過去の作品を読むにつけ、わたしはモト様自身が「救いを与える」存在、つまりカウンセラー的な描き手として自身を認識しているのだと考えていた。つまり作品中に職業カウンセラーは必要ないのだろう、むしろ登場させてしまうと邪魔になるのではないかと。

しかしこの作品には、オーソンとペネローペというカウンセラーの王道のようなキャラクターが登場する。サイコセラピーの入門書をかじれば誰でも、オーソンもペネローペも当たり障りのない、ステレオタイプのカウンセラーであることが理解できるだろう。ステレオタイプの登場は、あらゆる物語においてすなわち批判、否定を意味する。モト様が作品中にカウンセラーを必要とし、そして否定し始めたことに対し、わたしは意義を感じずにはいられない。モト様は自身の「カウンセリングの腕」を、今まではかなり否定的に見ていたように思う。ゆえに、職業カウンセラーを登場させて手腕を問う、ようなことまではできなかったのではないか、と思う。まったく正直なお方だ。そしてこの作品においては、やっと、「作品がカウンセリングを超える」という予兆を感じたのであろう。

カウンセリングブームが到来して久しい米国・英国が舞台であるせいもあり、カウンセラーを登場させないことにはリアリティが失われてしまうという、いささか仕方のない裏事情が見えもするが、それでもカウンセラーたちをこうも見事に否定し切る部分は賞賛に値する。モト様はほんとうにカウンセラーを超えてしまった。なお、ここまで書ききると誤解を生みそうなので補足するが、これはすべての悩める人間に対して、という意味ではない。少なくとも作中のジェルミにとって、という意味である。

オーソンは唯一ジェルミが虐待を受けている最中に相談を持ちかけることのできた人物である。ただ志なかばで、というより志すらどうでもよくなったように、自身の絶望と諦観の中で死んでしまう。ジェルミはいとも簡単に、たったひとつの希望から切り離されてしまった。と、一見するとそう見える、のだが、オーソンの死に際の独白などからは、カウンセラーとて希望にはなりえない、あとは自分でなんとかしろ、という乱暴な意図すら感じられる。それはまったくその通りなのである。モト様は冷静だ。後にジェルミがイアンにすすめられて通う心療内科には、ペネローペという女性のカウンセラーが登場し、こちらも何とかジェルミの苦しみを理解しようとするものの、これといった救済を与えない。なお、直接的なカウンセラーとは違うものの、事情をかかえた子どもたちを集めた夜間学校の教師というカウンセラー的な位置づけのキャラクターも登場するが、オーソンやペネローペと同じくジェルミにとっては毛ほどの救いにもなっていない。いや、救いにならない、どころではない、彼らは誰ひとりとして、ジェルミ自身から救いを求める意志さえ引き出すことができなかった。

なんのことはない、これが現実である。クライアントも人間、カウンセラーも人間だ。誤解されやすいところではあるが、カウンセラーが本来与えるべきものは、宗教的なにおいさえする「救済」とは一線を画するべきものである。そして、多くの人が「カウンセラーならじぶんの苦しみを理解し、苦しみから解放してくれる」と思いこむことそのものが、実はひとびとに乗り越えるべき課題を見失わせる一端となっている。しかしモト様はジェルミに安易な救済を与えなかった。ジェルミを救えるのはモト様だけである。この作品の「教師」的な立場であるリンドンがイアンに何度「専門家に任せろ」と言っても聞き入れなかったイアンは、モト様の願望あるいは挑戦そのものではないかと思う。

モト様が現実のカウンセラーを信じず、救済は作者であるじぶんが与えねば意味がない、としてこのような物語を造ったのなら、それはほんとうにすばらしい、それこそわたしが読みたかった物語である。カウンセラーに代弁させればぎりぎりで逃げることも可能だが、というよりむしろ、作家は逃げたいがゆえにカウンセラーに語らせるように思うが、そうでなかったモト様天晴れ、である。実際にジェルミがモト様によって救われたか、といえば、救いというものの定義が、ともかく絶望からの生還、ということであれば、ジェルミは間違いなく救われている。絶望の暗喩としての断崖絶壁を、彼は決して踏み越えなかったからである。

三.やおいにおける強姦ものとモト作品の違い

はっきりと言っておく。性的虐待も強姦も人格否定である。もはや殺人といっても過言ではない。一個の人格を完璧に殺す行為である。

ゆえにわたしは、やおいにしても男性向けにしても「強姦から始まるハッピーエンド」が大嫌いである。いや、男性向けは、共感できないものの男性の支配欲にはまだしも頷けるので放っておける範囲内の嫌いだが、女性が描く強姦ものは説教したくなるくらい嫌いである。なぜなら、女性が女性ならではのたおやかな心で愛を描いてくれるはずのやおいで、人格否定が公然と肯定されることの中に、女性特有の「甘さ」のようなものが色濃く出てしまっているように感じられ、わたしにしてみれば非常に不快だからだ。強姦から愛が生まれるなどとは笑止千万、世の中そんなに甘くない。強姦者は犯罪者だ。攻め(タチ)があまねく犯罪者になっていいのか。それで愛を描けるのか。強姦を軽視するな。ちなみにいわゆる、愛はあるんだけど攻め(タチ)がへたれかもしくは受け(ネコ)のガードが固過ぎるためにまるで強姦のようになってしまう、というストーリーはぎりぎりのところで批判の対象に含まないことを書き添えておく。

その意味でこの作品は、グレッグが見事に犯罪者として描かれていて、好感が持てた。無論、グレッグの行為は見ているほうが苦しくなるほど恐ろしいものである。そして、そうでなくてはならないと強く思う。ジェルミが自我を保てなくなってハレルヤを口ずさみながら忍び笑いを漏らすさま、憎しみさえ忘れやめてくれと懇願するさま、そうしてジェルミの人格がじょじょに崩壊していく様子が、性犯罪としての強姦・虐待を際立たせていていっそ小気味よい。度を越したサディズムを抜きにして考えても、ジェルミがグレッグを好きになることなど一切考えられない、殺したいほどの憎しみ以外を感じない、これが犯罪としての強姦が生み出す被害者の姿であり、リアリティであると思う。わたしは別段、リアリティだけを求めてやおいを読むわけでもないが、それにしても描くならここまで描かなければ説得力も何もないだろう、と思ってしまう。強姦ものがもてはやされるのを見るにつけ、描く、という行為が氾濫しすぎた末のこれは病巣ではないかと思われ、無念である。

何よりグレッグが性犯罪者として描かれるからこそ、イアンの葛藤、ジェルミの再生に、大きな意義が見出される。イアンはジェルミに手を出せば自らも父グレッグと同じ犯罪者になってしまうのではないかとの葛藤からなかなか抜け出せない。愛をセックスで表現しようとするならば、イアンはグレッグと同じ行為を踏襲しなければ愛を表せず、それゆえに混迷していく、そこが面白いのである。ジェルミは一度確実に死んでいる、だからこそ生まれ変わりたい、もう一度生まれ直したい、という水面下の願望に重みと確かな手ごたえがあり、生まれ直せるかどうかの瀬戸際の戦いに、わたしは知的興奮をかき立てられる。

モト様は知恵を尽くして犯罪としての強姦、そしてその先の物語を描いてくれた。強姦フェチなどと恥ずかしげもなく言う女子のみなさんには、ぜひともこの作品を読んで心を入れ替えていただきたい。なお、一応書いておくとわたしはSMの要素が好きである、こう断言するのは正直に言うともちろん恥ずかしいのだが、それでもSM的なもの、がわたしの嗜好であると言うことができる、ただし、強姦とSMは別物だと思っているし、SMは捻じ曲がった愛情であることもあると甘い考えを持ちつつも、強姦が犯罪であるという意識はきちんと保っているつもりである。少なくともわたしは、強姦を愛の小道具にするような甘えん坊ではない。

四.やおいにおけるトラウマ以下同文

三と似通った内容になるが、トラウマを甘く見てはいけない。ゆえに、トラウマを愛の小道具にするやり方も嫌いである。これについては、この作品に限らず多くの人が既に言及していそうな内容なので割愛する。

五.愛と死、エロスとタナトス

人はみな、若いころに一度おかしくなる。

思い返してみてほしい。16歳~19歳ごろのじぶんは、間違いなくおかしかったのではないだろうか。おかしい、というのは、濃密であったと言いかえてもいいし、迷走していたと言ってもいい、ただただ躁状態だったとか、どう考えても盲目だった、というひともいるだろう。ともかく思春期を終えて一区切りついたころ、みんな少しばかりおかしくなる。しかも、恥を恐れずに言ってしまえば、とくに性的におかしくなると思う。ちなみに、わたしは女性なので16歳~19歳ごろというとまさにぴったりなのだが、男性の方々はもう少し遅いかもしれない。16歳~19歳という年齢は、作中でのジェルミの年齢と一致する。

さて、そのおかしさがどう表出してくるかというと、これはそのころのじぶんを思い起こしてみると非常にかんたんである。ともかくエロに興味があった。そして哲学に興味があった。強烈な自殺願望があった。そのくせ生きることに貪欲だった。ちょっと年上の友だちを神のごとく崇拝しそうになった。世の中を席巻するようなお涙頂戴で泣かなくなり、マニアックな文学や写真で泣けるようになった。気持ち悪いほど涙もろかった時期もある。どれもこれも今にして思えばばかばかしいし、おかしい。そしてちょっと切ない。ここにジェルミの、イアンの葛藤を落とし込んでみると、ふしぎなほどしっくりきてしまうのである。パズルのミッシングピースがちょうど見つかったような気にさえなる。

モト様の描く「あのころのおかしさ」はほんとうにリアルだ。

ジェルミはよく泣くが、わたしも確かに涙もろかった。イアンはジェルミとのおおよその対立をセックスで解決しようとするが、わたしもエロ同人誌を手放せなかった。パスカルは間違いなく変態で頭がおかしいが、わたしも生きるために変態になりたい時期があった。マージョリーは自称死にたがりで、わたしもそうだった。ナディアはダメ男を100パーセント愛することで自我を保つが、わたしはいまだにダメ男が好きである。みんな多少、おかしいのである。彼らはディフォルメをものともせず、現実を生きるわたしたちそのものなのである。モト様万歳である。最終話のあたりで、ウィリアムがジェルミに「ぼくらの愛(エロス)と死(タナトス)」を語るシーンがあるが、それがまさにモト様らしい表現であり、モト様の十八番といっていいほどすべての作品の根底に流れるテーマであると思う。モト様は繰り返し、「ぼくらの」と表現しておかしくない年齢層の、「エロス」すなわち生の躍動、性への衝動、そして「タナトス」すなわち死への憧憬、人の儚さを描いている。この作品には、それらが今までになくぎっしりと詰まっている。

だから、イアンが突然ジェルミを愛していると言い出し、ジェルミがそれにつられてイアンを誘い、深くセックスに溺れていくのが違和感なく理解できる。やおいであれば至極あたり前の道筋を辿りながらも、ありきたりなやおいでは到達しえない高み、つまり万人が理解しうる説得力を背景に、彼らは交接するのである。モト様の緻密な人物造形・構成力が、やおいを一刀のもとに切り捨てている。男性同士の擬似的な愛を描きながら、これはもはややおいではない。読み手を選ばぬ娯楽作品たりえる。

あのころのおかしかったぼくらなら、これくらいのことはやれただろう。でもこれは一過性のものでもあって、過ぎてしまえば二度と手の届かなくなる、センチメンタルな虚構の思い出だ。

そういう、なんともいえない、ある種「乙女心と秋の空」という使い古された慣用表現に代表されるような、ノスタルジックな味わいが、力強い描写とともに押し寄せてくる感覚、これがモト作品のなんともいえない醍醐味であるとわたしは思っている。

六.「残酷な神」と「支配」について

コミックス版でモト様自らが言及している内容とは別に、考えてみたことがある。

ひとつめ。世の子どもたちにとっての親(あるいは親がわりの大人)=神なのではないか。

なぜなら、この作品に登場する主要な人物がみな「親の支配化にある」若者として描かれているからである。ジェルミはサンドラと特殊ではあるがグレッグに、イアンはリリアの記憶に、マットはグレッグと間接的にはナターシャに、ナディアとマージョリーはクレアに、明解に精神を支配されている。バレンタインとエリックは(それが道義的に正しいことであるとはいえ)両親によって引き裂かれる。パスカルはおそらくは牧師夫妻の支配から逃れようとしてああなったのではないかと思われるし、終盤ではグレッグその人でさえ、両親が与えてくれなかった幸せを求めて結婚した、というエピソードが描かれる。みな何か支配的なもの、つまり親という偉大かつ強烈な存在のもとで足掻いている。「支配する」の主語が「残酷な神」であり、支配する者、が「親」であるなら、「親=神」とも読めはしないか。

神は支配的であり、神は常に愛情深く、それゆえに残酷である。神を親と置き換えてみてほしい。 そう、この作品には、子どもたちが親の支配から少しずつ逃れようとする過程、が全編通じて描かれているようにも感じられる。ちなみに、子どもたちはやがて成長しても、この支配からは完全に逃れることができない。親は生涯を通じて、子ども、あるいはかつて子どもだった我々にとって、常に親で在り続けるからである。

もうひとつ。心そのもの=神ではないかと思う。

そもそも「精神」という言葉にトリックがあるとわたしは考えている。精神とは、字面のまま理解しようとするならつまり「心の神」なのである。自らの精神、我々ひとりひとりの精神とは、実はその言葉のうちに「神」という単語を内包するものである。いわゆる自立した、ひとりの人間の健全な「精神」とやらは、自らを支配する神を自らが律している、という状態にあるといえる。非常に日本人的な、つまり唯一神という信仰を持たないわたしの個人的な意見になってしまうが、前述したとおりわたしは、わたしを律する神はわたしの中にいる、と考えている。

とすれば、我々は生きている限り、自らの心すなわち神の支配から逃れられず、これと対峙し続けなければならない。善悪の葛藤を表現する際、心に天使と悪魔が住んでいる、というディフォルメがよく使われるが、我々に甘言をささやく心は、時としてたいへんに残酷である。我々の心はまさに、残酷な神、にひとしい。 さて、わたしは「神」についてこうした二通りの意味を(幼稚なこじつけさながらに)考えてみたが、これを踏まえて物語終盤の、「神の世界もまた狂っている」を読み解くとするとどうなるか。

我々は生まれながらに、親という偉大な存在、心というあやふやな概念、によって支配されている。しかし、支配者は必ずしも真っ当でない。支配者は全知全能の神ではない。親は時として過ちを犯す単なる人間に過ぎず、人間がみな心のおもむくままに行動すれば社会は成り立たない。それなのに我々は、いつの間にか、気づかぬうちに、これらの支配下に置かれている。あるいは支配されている、という意識さえないまま支配に浴し生きることで、いつか我々は道を踏み外すだろう。とくに、まだ自立した自らの神=精神すら持たない子どもたちは、親というもうひとつの神だけが世界のすべてとなり、結果盲目のまま蹂躙される。

その過程を、素直に率直に見たままのかたちで不必要な誇張なく描かれたのが、まさにこの作品ではないかと思うのである。

七.愛されるより愛したい?

人間は、他者から愛されることによっては何をも得られない。人間は、他者を愛することによってなにかを得る。この「なにか」が実際に何を表すのかは、人それぞれなのであると思う。それはとても感覚的なものであろうから、わたしは今ここで、何かしらの単語にこれを集約させる術を持たない。だが確実に、愛することによってしか得られない「なにか」があるのではないかと思う。生きていくために欠くべからざる「なにか」。

しかし、生まれながらに愛することのできる人間は、この世にはいないのではないかと思われる。みな誰かから愛されることによって愛するという行為に気づき、その手法を学んでいく。「なにか」を得る術を学んでいくのである。ジェルミがサンドラから「愛すること」だけでもきちんと教わること(汲み取ること)ができたのは、作品に仕掛けられたひとつの幸運な罠ではないかと思う。

さて、先にも書いたとおり、愛することによって得ることのできるものを、特定の単語を用いて表現することは難しいとわたしは考えるが、敢えてそれに挑むとするならば、愛することは穏やかな自己満足をもたらし、あるいは猛々しい興奮をもたらし、我々の生に彩りを添える、言うなればそれらは、生きるための糧のようなものである。愛することができなければ、死んでいるも同然、と言いたいわけではない。作中のジェルミは、まさに死んでいるにひとしいほど無感動であることもあるが、確かに生きている。それは、バレンタインやエリック、マージョリーといった、ジェルミと心の交流を行える面々との関わりの中にうかがい知ることができる。ただ、ジェルミの生には積極性がまったくない。彩りがない。生き生きと、生きている、そんな手ごたえが一切ない。

かつてサンドラを愛している、とジェルミ自身が信じていたころ、ジェルミは生き生きと生きていた。サンドラの死以降、ジェルミはほとんど死んでいる。イアンが執拗に愛している、と繰り返したところで、ほとんど死んだままである。モト様は、それを実にうまく表してくださった。スピードを使って、である。

物語序盤、サンドラがまだ生きていた頃、ストーリーはさくさくと進む。スピードがある。誰しも覚えがあるだろうが、生き生きと生きる、そういう状況にある人間にとって、世界はスピーディーに流れていくものである。だが、サンドラが死に、イアンにも一度裏切られた後、ジェルミを抱え込むようにして物語はゆっくりと失速していく。連載時、ストーリーが進まなくなった、という話をちらちら聞いたことがあるが、通して読んでみると、この失速こそがジェルミの「ほとんど死んでいる」状況を表すために必要なものだったのではないかと思えてくる。モト様が意図的にこれを表現していたのなら素晴らしいし、無意識だとしたらそれこそまったく天才である。

少々話がずれた。

生きる糧を失って失速したジェルミが、イアンの能動的な愛によっては少しも生き返らない、そこが論点である。イアンはイアンで、ひどく真摯に、何度も苦悩しながらジェルミを愛そうと試みるが、ジェルミが「誰かを愛したい」と思うようになるまで、物語は停滞したままだった。歌謡曲でさえ「愛されるより愛したい」などと主張している昨今、そんなの当たり前だ、と言われそうなテーマだが、待て待て、この作品の稀有なところは、先に挙げたスピードを筆頭に、その細やかな描写にある。「愛されるより愛したい」一言で言うのは簡単だが、これをひとつの、決して破綻しない流暢かつ雄弁なストーリーの中に押し込めるのは、なかなかに骨の折れる作業であるとわたしは思う。

その骨折りを経て完成された細やかな描写、心理面では特に秀逸である。わたしは読んでいる最中、まったくといっていいほどイアンには感情移入できなかった。むしろ笑える描写さえ多かった。これは、イアンが常に「愛すること」のできる立場にいて、「しあわせ」そうに見えたからだ。糧があって生き生きとしている、そういう人間に見えた。だからこそジェルミの、だれも愛せないという境遇、「なにか」を失ってしまった痛み、それらが見事に浮き彫りにされる。ジェルミだけでは成立しなかった、イアンだけでは成立しなかった、二人を対比させることではじめて際立つ、苦しい「愛」のやり取り。

愛されることも愛することも幸福だし、愛そのものも幸福だ、そんなきらきらした物語を求めるのと同じくらいにわたしは、暗く苦しい物語を求めてもいる。愛が安易な幸福と結びつかない物語を求めてしまう。愛あふれるやおい漫画を読んで育ったわたしの、これが本音である。愛には食傷気味だった。愛することができなくて死んでいるも同然のジェルミを見て、わたしは愛を思い出し、やさしい気持ちあるいは母性を取り戻す。

モト様は母性を否定しながら、その実母性を呼ぶ作家なのである。人間は誰しも心に神を飼う残酷さを持ち合わせているので、人の不幸は蜜の味、それもひとつの疑うべからざる習性であり、そんなことを思い出させてくれる作品には、ほんとうに久方ぶりに出会った。

・・・どうも最後まで話がずれているようだが、 冒頭にラブレターと書いたので、 もうこれでいいことにしよう。

おわりに

思いつくまま書きましたが、またなんか思いついたら書いてもいいかなーと思っているところです。もういいや、とも思っています。なお、このラブレターを書くにあたって、以下のサイトを参考にさせて頂きました。リンクフリーに甘えさせていただいて、ここに紹介するとともに尊敬・感謝を表明します。

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